今だから知りたい吉田松陰

第6回 天才少年現る〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:吉田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

意見書で藩政をリード

どうしてアヘン戦争の結果がショックだったの?


大次郎が学んだ山鹿流兵学のルーツは孫子の兵法だ。その孫子の国である清が、西欧列強には為す術もなかった。大次郎は13歳の時に西洋艦隊を仮想の敵とした軍事演習の指揮を執っているからね。並みの人物なら山鹿流なら西洋軍学に勝てると虚勢を張るところだけど、聡明な大次郎は何かを悟ったに違いない。

山鹿流では勝てないってこと?



もはや戦術の問題ではないということさ。科学技術の問題なんだ。山鹿流を否定することはそのまま自己否定にもつながるけど、大次郎は目をそらさなかった。そういう局面でも自分自身を誤魔化さない、逃げないというところも吉田松陰の凄さなんだ。

それで、大次郎君はどうしたの? 西洋風に鞍替えしちゃったの?


とにかく情報が欲しかったんじゃないかな。でも、当時、西洋の情報を直接入手できるのは唯一長崎だけだ。しかし、一介の長州藩士がすぐに天領である長崎に行けるわけではないから、長州で知り得る情報や学問だけでも掴んでおこうとしたと思う。藩士の飯田猪之助に西洋陣法を、守永彌右衛門からは荻野流砲術を学んだ。

当時の日本って、どの程度の軍事力だったの?


幕府にせよ、諸藩にせよ、鎖国政策で大型船の建造を禁じられていたから、まず軍艦がない。これは四方を海で囲まれた国にとっては丸腰と同じ意味だ。西洋の近代兵器も輸入されないから、火器の進歩も遅れていた。加えて島原の乱以来200年以上大規模な実戦がなかったから、経験不足も甚だしい。

200年も戦争がなかったら、確かにモチベーションも上がらないわよね。

まず外敵が攻めてくるというリアリティがない。いわゆる“平和ボケ”だな。しかも幕藩体制が長かったから“藩”という意識はあっても“国家”という意識が薄い。だからこの時代に国家意識、国防意識を持っていた人間はほんの一握りだった。長州にしたって、大次郎に期待したのは藩の守りであって国の守りではない。

大次郎君自身はどう感じていたのかな?


弱冠18歳で明倫館の師範として独立して、生徒の前で講義をしていたからね。その重責もあったとは思うけど、内心では「人に教えている場合ではない、自分自身が学ばなければならないことが山ほどある」という焦燥感を常に感じていたと思うよ。

16歳で世界は広いってことを知ってしまったのね。


何しろ生まれてからずっと萩を出たことがないし、萩が世界のすべてだったのに、地球全体からみれば、萩なんて小さなゴミみたいなもんだってことを知ったら、若者である以上、広い世界に飛び出したくなるわな。だから20歳になって九州遊学に行くまでの4年間は、はやる心を抑え続けていたんだと思う。

ところで、明倫館の生徒達からの、大次郎センセーの評判はどうだったの?

これがねぇ、後の松下村塾を思えば考えられないほど人気がなかった。他の授業の出席者が30名ぐらいなのに対して、大次郎の授業は平均4.8名。しかも出席者はほとんどが心配して様子を見に来ていた家族や友人だったらしい。

あははは。やっぱり若過ぎるから信用されなかったのかもね。


まだ学生が学生を教えているというような感じだったんじゃないかな。大次郎の若さは藩主へのデモンストレーションなんかには有効だったけど、藩士の中にはこの身分の低い若者に対して反発やジェラシーがあったとしても不思議じゃない。しかし、大次郎は得意の文章で、そういった周囲の“雑音”を黙らせる。藩の学制改革に関する意見書だ。

まだ18歳でしょ。藩に“意見”しちゃってもいいの?


しかもとんでもなく分厚いもので、内容は「一技一芸を教えると言うより藩の風儀を一変させるような教育」とか「文武一体」「若い者が勉学に専念できる環境」「試験の重要性」「書画骨董や囲碁将棋の禁止」「大器を育てるなら急いではならない」など、微に入り細にわたっている。

文章だけ読むとお年寄りが書いたみたいね。


藩もこれを受け入れ、翌年の嘉永2年(1849)には、明倫館を移転・新築。大次郎は校則を作って学内に掲げた。

校則って髪を染めちゃダメとか、そういうこと?


江戸時代に茶髪はいないと思うけど、まぁ、年長者には礼儀を守れとか後輩には親切にとか、ごく道徳的な規律だな。そして19歳になった大次郎は満を持して『水陸戦略』という意見書を藩に提出する。この中で、大次郎は日頃から練っていた国防戦略を披露するわけ。

簡単に言うとどんな内容?



言われなくてもいつも簡単に話してるだろ。外国の侵略に備えるためには、まず敵を知る必要がある。これまでの兵学も伝統に固執せず、時勢に合わせて柔軟に変えていく必要があるということだね。これはその後の松陰の基本的な考え方でもある。

山鹿流の限界を感じてからずっと考えてきたのね。でも、それを藩に進言するっていうのは勇気のいることよね。

同時期に大次郎は同じ山鹿流の兵学者である平戸藩の葉山佐内に手紙を送って、修学したいと申し出ている。要するに長崎を中心に、短期留学したかったんだろうね。19歳になった大次郎はターボがついたみたいに精力的に活動するんだけど、意見書の次は藩主へ『武教全書』の講義だ。

殿様のお気に入りだもんね。



内容は人材登用について。人には得意不得意があるから、得意な面を見抜くこと。同様に人の短所ばかりとらわれず、長所を見ること。大事には大人物を、小事には小人物を当てるべきというようなことだね。

現代にも通用する話ね。今は大事に小人物が当てられているような気がするけど…。

キミもたまには鋭いことを言うね。しかし、幕末の長州藩はそれを忠実に実行したことで明治維新を成し遂げる。大次郎は19歳ですでに藩政の精神的主軸、オピニオンリーダーになりつつあった。

長州藩の藩校、萩明倫館有備館史跡(萩市立明倫小学校内)→

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